広開土王碑と似た高句麗石碑、中国・集安で発見(朝鮮日報から引用)

これで、朝鮮も中国のもの、なんて言いださないよな。


引用開始

中国吉林省集安市麻線県で広開土王(クァンゲトワン)碑のミニチュア版ともいえる、よく似た高句麗の石碑が発見された。高句麗の石碑発見は414年に建てられた広開土王碑(好太王碑)、同じ時期に建てられたと推定される忠州高句麗碑(国宝205号)に続き3番目の発見となる。


 集安は高句麗初期の都があった場所で、古墳などの遺跡が集中している。韓国古代史学会総務を務めるヨ・ホギュ韓国外国語大学教授は「広開土王碑は高句麗の地方制度を解明する契機になった。集安の高句麗碑は5世紀の高句麗史を研究する上で画期的な資料になるのではないか」と述べた。


 韓国の歴史学界は、今回の発見を「考古学の大事件」と受け止め、興奮を隠せない。高句麗の政治、経済、文化、社会制度を明らかにする上で貴重な手掛かりとなるからだ。


 学界では史料が絶対的に不足している5世紀の高句麗史のベールを取り払う上で、今回発見された高句麗碑が画期的な役割を果たすと期待している。


■発見の過程


 中国国家宝物局が発行する『中国文物報』(今月4日発行)によると、昨年7月29日に麻線県の住民が麻線河の川辺で碑を発見し、集安市文物局に届け出たという。


 麻線県は1000基を超す高句麗時代の墳墓が集中した場所で、うち王墓とされる「千秋墓」「西大墓」は国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されている。同紙によると、碑石は春秋墓から南東に約456メートル、西大墓から南西に1149メートルの地点で出土した。


 今回発見された碑石は、王墓を管理する内容が書かれた「守墓碑」と呼ばれるものとみられる。
■碑文の内容


 長寿(チャンス)王(394−491)の在位期間(413−491)に当たる414年に建てられた広開土王碑は1880年代に日本が碑文を公開したことで知られるようになった。碑文は朱蒙チュモン)による建国の神話から広開土大王に至る系譜に続き、広開土王の征服活動、業績を時系列に記録している。最後には墓を守る「煙戸」と呼ばれる人物の名簿、管理規定が書かれていた。


 新たに発見された高句麗碑は、広開土王碑の内容の縮約版ともいえるほど似ている。碑の上部、下部は消失しており、隷書体218字が刻まれているが、判読可能な文字は140字だ。


 「始祖鄒牟王之創基也(始祖朱蒙王が国を建てた)」という部分は広開土王碑の冒頭と全く同じだ。続いて「○○○子河伯之孫」という部分は、朱蒙が「河伯」(水の神)の孫だと指摘している。広開土王碑が朱蒙を「天帝の息子で、母は河伯の娘」と紹介しているのと似ている。文字が消失している上部には「天帝之子」など高句麗天孫神話に関する部分があった可能性が高い。


 それに続き、「煙戸(墓守り)」を置き「四時祭祀(さいし)=定例の歳事=」を行うようになったこと、「煙○○○○○富足○転売○○守墓者以銘(裕福な者が墓守りを買い取り売り払った)」「立碑銘其煙戸頭廿人名○示後世(碑を立て、煙戸20人の名を後世に伝える)」「守墓之民不得○○更相転売雖富足之者亦不得其買(富める者でも墓守りをみだりに売買してはならない)」などと書かれている。


 碑石は花こう岩製で、高さ173センチ、幅60.5−66.6センチ、厚さ12.5センチ、重さ464.5キロだ。碑文は10行で、1行22字(最終行のみ20字)。1775字から成る広開土王碑に比べると8分の1の文字数だ。


金基哲(キム・ギチョル)記者

朝鮮日報朝鮮日報日本語版
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