セールスマンの誕生―アマゾン創業の舞台裏(WSJ日本版から引用)

想像することは楽しいことだ。創造し楽しむことがお仕事。

引用開始
テキサスで過ごした若き日々、創業当時の混乱、なぜ否定的なレビューの掲載を認めたのかなど、インターネット通販大手アマゾンとその創業者ジェフ・ベゾス氏の成功の舞台裏を、ジャーナリスト・作家のリチャード・L・ブラント氏が探る。

 ジェフリー・プレストン・ベゾスがテキサス州コチュラにある祖父の牧場を初めて訪れたのは4歳の時だった。「レイジーG」と呼ばれるこの牧場は州南西部に2万5000エーカー(約1万ヘクタール)にわたって広がっている。

 ここにはメスキートとオークの木が手つかずのまま生い茂り、オジロジカ(地元猟師に人気の獲物だ)や野生の七面鳥、ハト、ウズラ、野生のブタ、ヒツジが住んでいる。ジェフの母方の祖父、ローレンス・プレストン・ガイス氏はロケット研究者の仕事から引退したばかりで、簡素でやりがいのある生活をこの牧場で始めようとしていた。
そしてガイス氏は自分の孫と一緒に牧場での生活を経験したいと考えた。ジェフは16歳まで毎年この牧場で夏を過ごした。ジェフは牧場で牛舎の掃除や牛の焼き印押し、去勢の仕方、水道設備の設置、その他の牧場に必要な手仕事を学んだ。

 ある日、ジェフの祖父はトランスミッションがないボロボロのキャタピラー社製のD6ブルドーザーを引っ張ってきた。これを修理するのは大仕事になるかもしれない。エンジンから500ポンド(約226キログラム)もの重さがあるギアを取り外さなければならないからだ。それにはなんの問題もなかった。祖父は自分で小型クレーンを作ったのだ。ジェフはそれを手伝った。

 「田舎で学べることの1つは自分を信じることだ」とベゾス氏は語る。「みんな何でも自分でやる。そういう意味での自立を学ぶことができる。祖父は私にとって影響力の大きなロールモデルだった。何かが壊れたら修理しよう。何か新しいことを成し遂げるには、他人にどうかしていると言われるくらい頑固で集中しなければならない」

 1994年の夏、ベゾス氏は副社長として勤務していたニューヨークの金融サービス会社D.E.ショーを辞めた。ベゾス氏と妻のマッケンジーさんはシアトルに移り、インターネットの急速な発展をテコにアマゾンをスタートさせた。アマゾンは元々、「カダブラ(Cadabra)」という社名だったが、「カダバー(cadaver)」(「死体」の意味)と聞き間違えた人がいたため、変更された。

 ベゾス氏夫妻が最初に借りた家はシアトル郊外のベルビューにある、寝室が3つある一軒家で、1カ月の家賃は890ドル(現在のレートで約6万8000円)だった。ベゾス氏がこの家を選んだ理由の1つはある欠かせないものがあったからだ。

 それはガレージだった。ガレージがあれば、ヒューレット・パッカード以降シリコンバレーで成功した数々の企業のように、ガレージで起業したと自慢できる、というわけだ。実際のところ、このガレージは娯楽室に改装されたが、ベゾス氏はそれで十分だと思った。

 アマゾンは1995年7月16日にサイトを立ち上げた。ちょうど多くの人がインターネットを使い始めた頃で、多くの競合他社が優れた商業サイトを作り出す前のことだった。ベゾス氏はアマゾンを工業地域に移転させた。アマゾンが入居した建物には薬物使用者のための注射針交換プログラム施設とシャッターを下ろしたままの質屋があった。

 ベゾス氏は2階に1100平方フィート(約100平方メートル)のオフィススペースを、地下に400平方フィートの倉庫スペースを確保した。オフィスのデスクは安物のドアで作られていて、脚は角材だった。倉庫スペースは販売業者から顧客に送る途中の数百冊の本を収めればいっぱいだった。

 割引率を10%から30%としたことが功を奏し、サイトの立ち上げ直後から注文が入り始めた。当初の注文件数は1日当たり5、6件だった。コンピューターにソフトを入れて、注文が入るたびにベルが鳴るようにした設定した。

 最初は物珍しかったが、すぐにうるさくて仕方なくなり、この機能は使われなくなった。サイトの立ち上げから3日後、ベゾス氏の元にヤフーの創業者の1人、ジェリー・ヤン氏から電子メールが届いた。ベゾス氏はのちにこう語っている。「ジェリーは『あなたのサイトは素晴らしいと思います。What's Cool(リンク集)のページに載せませんか』と言った。われわれはしばらく考えて、おこぼれにあずかる程度だと思ったが、この話に乗ることにした」

 ヤフーがアマゾンのサイトをリストに掲載すると、注文は急増した。その週の終わりまでにアマゾンには1万2000ドルを超える注文が届いた。ついていくのが大変だった。その週にアマゾンが発送した本はたった846ドル相当分だった。

 翌週には1万5000ドル近い注文が入ったが、発送することができたのはそのうちのおよそ7000ドル分だった。サイトは立ち上げの時点でも本当の意味で完成していたわけではなかった。市場に素早く攻勢をかけて競争で優位に立ち、消費者が使い始めたら問題を解決してサイトを改善する。これがベゾス氏の哲学だった。

 ベゾス氏によると、起業当初はこんなミスもあったという。「本の注文数をマイナスにすることもできる設定になっていたことが分かった。つまり、自分たちが顧客のクレジットカードに代金を入金して、顧客から本が到着するのを待っていたということだ」

立ち上げから最初の数週間は、アマゾンの社員全員が午前2、3時まで働いて本を箱に詰め、住所を書いて発送した。ベゾス氏は梱包作業のためのテーブルを注文していなかったため、みんなコンクリートの床に膝をついて本の梱包作業を行う羽目になった。

 ベゾス氏はのちにあるスピーチで当時のことをこう語った。何時間も床の上で梱包作業を続けた後、ベゾス氏が1人の従業員に向かって膝当てを買わなければと言ったところ、この従業員、ニコラス・ラブジョイ氏は火星人でも見るかのような目つきでベゾス氏を見たという。ラブジョイ氏はテーブルを買って下さいと、当たり前の提案をした。それを聞いたベゾス氏は「私がこれまでの人生で聞いた中で最も素晴らしいアイデアだと思った」と語った。

 情けないほど素人じみた運営だったが、アマゾンは立ち上げ直後から急激な成長を遂げた。

 10月までには1日の販売冊数が初めて100冊に達した。それから1年もしないうちに1時間の注文数が初めて100冊に達した。アマゾンは初年度には実質的に何の広告も打たなかったが、うわさは広がり続けた。たった1つ例外があった。それはベゾス氏が移動式の看板を借りてバーンズ・アンド・ノーブルの店舗の前を車で走らせたことだ。看板には「欲しい本が見つからない?」というメッセージとアマゾンのウェブサイトのアドレスが表示されていた。

 ベゾス氏が「アマゾンの礎」とした同社の顧客サービスは、顧客からのメールに創業者自ら返信することから始まった。1999年までには500人の顧客サービス担当者がパーティションで仕切られた個室から質問に回答するようになった。

 顧客からのメールに対応していた従業員は大抵、仕事に不釣り合いなほどの高学歴者で、低賃金で雇われていた。書籍販売の経験はなかった。顧客から人気があったのは、学界からはじきだされたような“学者”たちだ。彼らは博識で、幅広いテーマで本探しを手伝えると思われたからだ。

 時給はおよそ10ドルから13ドルだったが、昇進やストックオプション付与の可能性が目の前にぶら下げられていた。優秀な担当者は1分間に12、13通のメールに返信することができた。1分間の返信数が7通に満たない人間は解雇されることが多かった。当時を知る顧客サービス担当マネージャーによると、スタッフが1週間に7日、1日に12時間仕事をしてもメールの返信に1週間半の遅れが出てしまったとき、ベゾス氏から苦情の電話が来たという。

 マネージャーがスタッフはこれ以上働けないと言うと、ベゾス氏はある解決法を思いついた。顧客サービスの担当者が週末の2日間を使い、未処理メールを誰が一番多く処理できるかを競ったのだ。その週末、全員が通常勤務に加えて少なくとも10時間余分に働いた。メールを1000通処理するごとに200ドルのボーナスが現金で支給された。未処理メールは片付いた。

 アマゾンがサービスを開始した当時のことだが、ベゾス氏は毎週、従業員に変わったタイトルの本を20冊選ばせ、その中で一番変わっているタイトルの本に賞を与えていた。受賞作には「Training Goldfish Using Dolphin Training Techniques(イルカの訓練テクニックを用いた金魚のトレーニング法)」や「How to Start Your Own Country(自分の国の始め方)」、「Life Without Friends(友達のいない人生)」などがある。

 ベゾス氏の初期の決定の中で議論を呼んだことの1つに、顧客が書いた本のレビューを好意的であるか否定的であるかを問わず、サイトへの掲載を認めるというものがあった。競合他社は本屋がなぜそんなことを許すのか理解できなかった。

 レビューの掲載を始めて数週間もしないころをふり返ってベゾス氏はこう語る。「私が自分の仕事を分かっていないという主旨の手紙が善意の人々から届き始めた。物を売って金を稼ぐのが仕事なのに、なぜ自社のサイトに否定的なレビューを掲載させるのか、という指摘だった。しかし、消費者の購買決定を支援すればもっと売れる、というのが私たちの考え方だ」

 時間が経つにつれ、ベゾス氏独自の経営スタイルが明らかになり始めた。ベゾス氏は常に「いい」CEO(最高経営責任者)というわけではない。彼は人にひらめきを与えたり、人をおだてることもできるが、人をいら立たせたり叱りつけたりもする。ベゾス氏は大局的に物事を見ることもできるが、頭がおかしくなるほど細かいことにも口を出す。ベゾス氏は変わり者で優秀、そして要求の厳しい人間だ。

 かつて幹部としてアマゾンに勤めた人物はある社外研修の場面を思い出して語った。数人のマネージャーが従業員はもっとお互いにコミュニケーションを取るべきだと提案したところ、ベゾス氏は立ち上がってこう力説した。「だめだ、コミュニケーションは最悪だ」

 ベゾス氏が求めていたのは権力分散型の企業、さらに言えば組織としてまとまりがない企業だった。1人1人のアイデア集団思考より優先される企業を欲していたのだ。ベゾス氏は全社的なルールとして「two-pizza team(2枚のピザのチーム)」というコンセプトを打ち出した。つまり、どのチームも2枚のピザで食事が足りるくらいの人数に参加者をとどめなければならない、ということだ。

 ベゾス氏は創業当初から、ほんの少しずつでもアマゾンの実用性を高めることに異常なまでの情熱を傾けていた。新しく導入した機能の多くはワンクリック・オーダーなど単純なものが多かった。アマゾンが取得したワンクリック特許について、ある法律専門誌は「独創性に欠けるソフトウエア特許としておそらく最も記憶に残る例」と評した。この特許によって、他のオンライン小売業者はアマゾンに使用料を支払わなければワンクリック方式の購入システムを使用することはできない。

 あるとき、1人の高齢の女性からアマゾンにメールが送られてきた。そこには、アマゾンで本を注文することがとても好きだが箱が開けにくいため、甥がやって来て開けてくれるのを待たなければならないと書いてあった。ベゾス氏は開封が楽になるようにパッケージのデザインを変更させた。

 ベゾス氏はサイトを改良する努力を続けている。2008年6月、アマゾンは「Movement recognition as input mechanism(入力機構としての動作認識)」という表題の特許を申請した。アマゾンの顧客は間もなく、自分のコンピューターやアマゾンの電子書籍端末「キンドル」、携帯電話に向かってうなずくだけで買い物ができるようになるだろう。業界ではこの特許を「ワンノッド(うなずき1回)特許」と呼ぶ人間もいる。

 昨年12月にはアマゾンが新たな特許を取得したことが明らかになった。アマゾンを通じて贈り物をもらう場合、品物が到着する前に返品できるというシステムに関する特許である。

 この特許によると、ミルドレッドおばさんがもらい手にとってうれしくない贈り物ばかりを送る場合、アマゾンのサイトで「ミルドレッドおばさんからの全ての贈り物を交換する」というオプションを選択できるようになる(「ミルドレッドおばさん」とは特許に表記された架空の親戚の名前)。

 贈り物を受け取る人は善意にあふれたミルドレッドおばさんがいつ自分のために贈り物を買うかを追跡し、贈り物が発送される前に自分の欲しいものと交換することができる。「ウール混紡の衣類は不可」などのルールも設定できる。このアイデアは好みのうるさい人間を喜ばせるだけではない。アマゾンは商品交換の必要が減るため、多額の費用を削減できる。

 特許には発明者としてベゾス氏の名前が記載されている。

ブラント氏は「The Google Guys」の著者。このエッセイはブラント氏の最新作「One Click: Jeff Bezos and the Rise of Amazon.com(ワンクリック:ジェフ・ベゾスアマゾン・ドット・コムの隆盛)」の一部である。

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記者: Richard L. Brandt
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